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広島と、広島の人々と、お好み焼きと。鉄板の上に生地を何度も広げ積み重ねてきた小さな幸せは、同心円状に重層的に世界につながると信じて。

広島といえばお好み焼き。街を歩けば、あちこちにお好み焼きののぼりやのれんを見かけ、ソースの香りが漂う(気がする)。暑い時期になると、戸を開けたお店の中から鉄板の上でヘラとヘラが奏でるリズミカルな金属音が聞こえてきたりもする。あ、お好み食べたい、と思う瞬間だ。
観光客も多い。特に、さあアフターコロナ、となれば早速あちこちで外国人観光客を目にするようになった。きっと、日本らしい濃紺の和のれんをくぐって、OKONOMIYAKIを食べるのだろう。どうか、お口に合いますように。
お好み焼きよ世界へ、平和とともに伝わっていけと、旅の人に思いを託す。

広島県のお好み焼き店舗数は1,000件以上、人口1万人あたりの店舗数は全国1位(2021年)

お好み焼きは、昔から日本のあちこちで人気のおやつだった

広島から私たちがお好み焼きを伝える思いは、人一倍、いや全国一、世界一といっても過言ではない。そして、それは競うことではなく、熱量が伝播していく強さであり、熱いエネルギーのようなもの。それはなぜか。

お好み焼きは歴史的にみても、もちろん、広島だけのものではない。
その直近のルーツとして、大正から昭和にかけて子どもたちのおやつとして人気のおやつ、一銭洋食がある。小麦粉を水で溶いて焼いた生地の上、ネギや削り節などをのせる。ソースを塗ればなんでも「洋食」と呼ばれた時代、駄菓子屋や屋台で食べる素朴な味わいは庶民は子どもの楽しみだったそう。年配の方からは「ヨーショク」「ヨーショク焼き」と呼んどったんよ、と耳にすることがある。関西でも同様に、一銭洋食は人気のおやつだった。
その「一銭洋食」が、広島お好み焼きの前身だ。

二つ折りにした一銭洋食のイメージ

戦後の広島の人々の支えとなり、重なっていくお好み焼き

1945年8月、広島に原爆が投下される。一瞬にして焼け野原となった。筆舌に尽くすことは到底できないが、あらゆる苦しみ悲しみが凝縮するなかにも今日を生きるのに必要なのは食べ物だ。食糧不足にあえぐ中、焼け野原にあった鉄板と配給された小麦粉(メリケン粉)が出合い、再び「一銭洋食」が作られ始める。この懐かしい味。それが、どんなに広島の人の空腹を満たし心を癒したことか。原爆投下から5年もたたないうちに、お好み焼きの屋台は流行し、中心地でにぎわいを創る。
一方、郊外では、戦争で夫を亡くした女性が家の軒下を改造して鉄板を設け、お好み焼屋さんを開いたという。店の屋号に「〇〇ちゃん」という名前が多いのは、戦地から帰ってきた方がみつけやすいから、という理由もあったそう。けなげにしたたかに、お好み焼きと共に、子どもを育てながら、また地域の人々のおなかと心を満たすことが、この地で生きるすべだった。

広島市内のお好み焼き店(昭和30年代)

当社がお好み焼き用のソースづくりに着手したのも1950年(昭和25年)頃。もともと戦前から酢づくりをしており、「これからは洋食の時代が来る」とのアドバイスでソースづくりを始めた。しかし後発メーカーのため取り扱ってくれるお店はなく、その頃に流行っていたお好み焼きの香りに引き寄せられるように、屋台をのぞいては店主の悩みを聞いた。当時のウスターソースでは、「ソースがさらさらと鉄板に流れ落ちる」「お好み焼にあうソースを」と、何度も試行錯誤して誕生したのが、お好み焼き用専用ソースだ。

お好み焼き用ソースの発売は、1952年(昭和27年)

このように、広島では戦後のわずか数年のうちから、それぞれに置かれた状況から歩みを進めるなかで、お好み焼きをがひとつの糧となり、生活の支えにもなっていく。人々の心と空腹を満たしていくかのように、食材がキャベツ、玉子、豚肉、麺・・と増していく様子は、広島の復興と豊かさを実現しいく力強さに重なり愛おしく思う。

戦後70年は草木も生えない、と言われた地で、人々をつなげ、街に活気をもたらし、明日へのエネルギーとなったお好み焼き。平和への願いを生まれながらに内包し、復興とともに歩み続けたこの食べ物は、私たちにとって唯一無二であり、まさに、広島の魂のこもったソウルフードだ。平和を願い復興を象徴する食べ物として美味しさだけではない意味を担い、世界へと広げていく意志と使命を携えている。

お好み焼きは、さまざまな境界線を越えていく。

その後の、広島の街と人々とお好み焼きは歩みをゆるめることなく発展し、時代を共にしてきた。人々は出張や転勤、引っ越しなどで広島県外に出る際は、使命を持っているかのようにお好み焼きを広めた。ついでに、お好みソースも広めてくれた。同じ時代を共にした、同志のような県民性があるのかもしれない。お好み焼き(とカープ)でいつも、つながっている気がするのは幸せな思い込みではないだろう。

そして、現在。OKONOMIYAKIとして、世界中の人々に親しまれはじめた、お好み焼き。具材がお好みでいい、という懐の深い料理ということもあるけれど、デモンストレーションをすると人が集まってくる、エンターテイメントなメニューだと改めて思う。ゼロからスタートした広島の人々を励ました魅力は、世界にも通用する、そんな自信とヘラと鉄板を持って今日も世界へ向かう。

「美味しい」を囲むこと、それが私たちの目指す「幸せのかたち」。お好み焼きを囲む団らんのひとときには、楽しさ、やさしさ、心地よさが自然と生まれ、人と人との心の垣根を超え、思わず生まれる笑顔。

広島が世界から注目される今、お好み焼きという「BORDERLESS FOOD」(ボーダレスフード)を通じて、人々が結ばれ、その輪が大きな力となって、世界中に広がっていく未来に貢献し続けたい。
それが、広島で生まれ育った私たちの決意と使命だ。
お好み焼きは、さまざまな境界線を越えていく。
と信じて。

「小さな幸せを、地球の幸せに。」G7広島サミット参加7カ国の公用語で表現





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